2006年10月04日
カメラマンを目指していました。
10年前の神戸の地震があったとき、僕はカメラマンを目指していました。
震災があって直ぐに僕はカメラをもって外に飛び出しました。
大変なことになった、これはたくさんの人が亡くなっているに違いない。
と思ったからです。
その時僕は一人暮らしをしていて、長田に住んでいました。
たくさんの人が呆然と外に出ていました。
倒壊した家に取り残された人もたくさんいて、家族が必死に叫びながら取り残された人を助けようとしていました。
必死でシャッターを切りました。
写真を撮りだしてどのくらいたった後かは覚えていませんが、そのうち火の手が上がりました。
たくさんの家が燃えていきます。
火の手が隣の家、その隣の家とまわっていき、あたりは煙で真っ暗になりました。
「写真を撮らなくては」と、火のほうに近づいていきたくさんの写真をとりました。
たくさんの人が燃えていく自分の家を、ただただみつめていました。
長田の家が燃えていくとき、その家に住んでいた方々のたくさんの思い出までが燃えてなくなってしまいました。
その思いを考えると今も涙が出てきます。
10年経ってあの時の写真を見ることはできません。
というよりも見れないのです。
燃えてしまった長田の街も今ではきれいになりましたが、僕にとってあの時の写真を見れるようにはもう少し時間がかかりそうでうす。
僕の中で、阪神淡路大震災はまだ続いています。
38歳・カメラマン
震災があって直ぐに僕はカメラをもって外に飛び出しました。
大変なことになった、これはたくさんの人が亡くなっているに違いない。
と思ったからです。
その時僕は一人暮らしをしていて、長田に住んでいました。
たくさんの人が呆然と外に出ていました。
倒壊した家に取り残された人もたくさんいて、家族が必死に叫びながら取り残された人を助けようとしていました。
必死でシャッターを切りました。
写真を撮りだしてどのくらいたった後かは覚えていませんが、そのうち火の手が上がりました。
たくさんの家が燃えていきます。
火の手が隣の家、その隣の家とまわっていき、あたりは煙で真っ暗になりました。
「写真を撮らなくては」と、火のほうに近づいていきたくさんの写真をとりました。
たくさんの人が燃えていく自分の家を、ただただみつめていました。
長田の家が燃えていくとき、その家に住んでいた方々のたくさんの思い出までが燃えてなくなってしまいました。
その思いを考えると今も涙が出てきます。
10年経ってあの時の写真を見ることはできません。
というよりも見れないのです。
燃えてしまった長田の街も今ではきれいになりましたが、僕にとってあの時の写真を見れるようにはもう少し時間がかかりそうでうす。
僕の中で、阪神淡路大震災はまだ続いています。
38歳・カメラマン
Posted by バケツリレースタッフ at 17:29│Comments(0)